僕の観察日記

僕が感じたことを書いていき、自分のことを観察、記録するブログ

親元を離れて

久しぶりに書く。

結論から言うと随分と精神的に楽になった。

 

自分で何でも好きにできる。制限が無い。

賃貸である以上ある程度の制限はかかるが、それを除けば家をどのようにしてもいい。

一時的に物置スペースを作ろうが模様替えをしようが文句を言われない。

周辺住民のことを考えなくてはいけない制限はあるが、それを除けばいつ風呂に入ってもいいし、いつ洗濯をしてもいいし、いつ掃除をしてもいいし、いつご飯を食べてもいい。

何を買っても、どこに行っても文句を言われることがない。

今まで制限だらけの環境だったのに、今は大違いで凄く楽だ。

しかもバイトと違って正社員の給料なのでかなりの額が入る。

生活費などと相談しながら自分の好きなものをどんどん買っていきたい。

AppleWatch、扇風機、ゲームソフトを入れるカラーボックス、スマホスタンド、PS4Pro…。

他にも多々あるし、今後も増えていくだろう。

 

基本的に欲しいと思ったものは生活費と相談してどんどん買った方がいい。

短い人生でストレスは少しでも溜めこまない方がいい。

買って生活が快適になるならそれで物と同時に健康も買っていると思う。

何なら時間だって同時に変える。

毎日の洗い物が面倒だ。食洗器を買おう。

食洗器という物。洗い物が面倒というストレスを失くして健康。洗い物を手動でしなくてよくなるので時間。

物を買う時は単に物を買うというだけでなく、同時に得られるメリットがあるはず。

それを含めて考えれば、「お金が…」と我慢するよりよっぽど買うことの方にメリットがあると気付くはずだ。

もちろん全てがそうじゃないが。

物を買うとなったらまずそれを買うことでどうなるかを考えよう。

メリットとデメリットが同時に存在するはずだ。

まず物を買う以上お金が減るデメリットが存在する。

机などを買うのであればスペースを食うデメリットが存在する。

さまざまなメリットとデメリットが存在するが、それらと相談してから結論を出そう。

 

少し話が脱線したが、今までよりも好きに物を買えるということ、好きに部屋に置いていいこと、それらが一番嬉しいのかもしれない。

今まで毎年2,3万のお年玉だけでお小遣いはなく、ゲームだけが趣味だった僕には2.3万はゲームソフトのために置いておくしかなかった。

つまりほとんど好きなものを買えなかった。

好きに物を買って自分の生活を潤すことができる素晴らしさをこの歳になってようやく知ることができた。

楽しい。

自分らしく生きるという意味が今まで分からなかったが、最近はわかる気がする。

専門学校に入ってからようやく自分がどういう人間かというのが分かり始め、最近になってだいぶ確立し始めた。

これも専門学校に入って頑張れたからだ。

バイトもして、少しずつ自分の好きな物を買ってきた。

そうすることで趣味が徐々に増えてきた。

ゲームだけだった趣味がプログラミング、ラーメン、アニメ、ドラマ、映画、本、音楽といろいろと増えてきた。

今まではゲームだけしかなかったが、その他にも語れることがいろいろと多くなったのは凄く嬉しい。

多くなったことで単純に自分自身が楽しめるし、他の人とも話題を共有しやすくなるからだ。

今まではゲームが好きでひたすらゲームのことだけは語れる自信があったが、ゲームに偏り過ぎて他の人が知らないことまで知っていて、むしろ話せないといった状態だった。

誰もそこまで知らないことの方が多かった。

だが今は徐々に趣味が増えたおかげでいろいろと話せるようになった。

ひたすらゲーム漬けだったのも楽しかったが、やはり人と関わることの方が面白い。

いろんな生き方があるとは思うが、僕はゲームやその他の趣味を嗜みつつも人と関わることを疎かにしたいとは思わない。

多くの人と関われることがより人生を彩ることに繋がると思うからだ。

だからこれからも自分の好きなことをしていく。

色んな人と関わったり、自分の趣味を増やしたり、新しいことにどんどん挑戦したり、自分の生活をより豊かで快適で楽しいものにしていく。

今までは嫌な親の元で暮らしてきて相当に辛い思いをしてきたし、周りの幸せな家庭で育ってきた人たちが凄く羨ましいが、それでも今自分は幸せだから、この幸せを継続できるように、より幸せと思えるように行動していく。

僕は人の役に立ちたいと思って生きているが、人を幸せにするためにはまず自分が幸せでないといけない。

自分にお金が一銭もないのに他人にお金を分け与えることはできない。

幸せも同じで、無理に他人に施しをしても後で返してもらえなかったりしたら嫌な想いをする。

でも自分に余裕があればそんなことを思わない。

返してもらわずとも幸せだからだ。

自分で自分を幸せにできる人こそ他人をも幸せにできる。

もちろん、意識しないと他人を幸せにすることは難しいが。

自分がただ幸せなだけでは他人を幸せにすることはできない。

幸せな上で他人を想っての行動をしなくはいけない。

だから僕はまず自分を幸せにし、他人を想っての行動をし、自分に関わる人が「僕と会えて良かった」と少しでも思えるような人になりたい。

嫌な親の元を離れて自由を得たのはそのための過程の1つだ。

これからどんどん僕は幸せになっていく。

幸せな家庭では当たり前なようなことでも僕はこれから経験していく。

周りが羨ましいし妬ましいこともあるけれどそれでもいい。

苦しい環境で育ったからこそ、同じような人に対して共感できるし、そして助けたいと思う。

これが間違ってるとは思わない。

自分がかつて誰か共感してくれる人を求めて、助けを求めていたからだ。

自分の様な人を多く救いたい。1人でも多く。

小学校の卒業式で歌うような歌が嫌いだ

久しぶりに書く。何か書こうと思ったので完全に気分だ。

 

僕は小学生の頃からタイトルにあるようにこの手の歌が嫌いだった。

理由は、世界は皆幸せになるようにできているとでも言うような、ある種宗教じみた考えのもと作られたような歌ばかりで嫌気がさしたからだ。

「辛いことがあろうと誰か助けてくれる」「きっと上手くいく」「未来には幸福な道が開けている」。だいぶ大雑把ではあるが、このような意味合いが歌詞から汲み取れる歌ばかりだ。

小学生の頃は薄っすらと嫌いだった程度だが、中学生で不登校になったりなどして以降明確に嫌いになった。今も変わらず嫌いだ。

この世は全ての人が幸せになるようになんてできてはいない。そんな現実を無視して明るい部分にしか焦点を当てていない、そんな歌が嫌いだった。

しかし最近、そんな都合のいい世界しか見ていない歌とは違って、現実をしっかり見ている歌を知った。

人それぞれどんな生き方をしてきたかは様々だが、僕はその歌に強く共感した。

歌手の名前は「倉橋ヨエコ」さんだ。

最近は活動をしていないが、歌は非常にたくさんある。

そのどれもが独特の魅力を放っていて、他にない唯一無二の世界を築いている。

リズム、世界観、歌い方、歌詞。全てが素晴らしい。この人の歌に不満を挙げようとしても何も挙がらない。

僕は普段音楽はゲーム関連のものしかほとんど聴かない。ゲーム以外だとせいぜいアニメ関連か。ゲーム、アニメ、また映画やドラマなどとは全く関係がない、純粋に歌だけを聴いて好きになったのもこの人が初めてだ。そしてここまで歌手にハマったのも初めてだ。歌というより曲、ゲームのBGMならササキトモコさんや山根ミチルさん、金子憲次さんが大好きだ。

少し話が逸れたが、伝えたいのはとにかく倉橋ヨエコさんの曲が僕は大好きで、本当に素晴らしくて心の支えにさえなり得る歌を歌っているということだ。

頑張ったら絶対報われるなんて無責任なことは言わない。全部の歌を聴いた訳ではないからもしかしたら言っているものもあるかもしれないが、少なくとも大半の歌が、辛い気持ちを吐き出すように歌った、気持ちが直接心に届くような歌、辛いし報われることもないだろうけど生きていく、そんな内容だ。

人に寄っては暗いから聴いてて合わないとなるかもしれない。ただ、辛い経験をたくさんしてきた人にとってはむしろ共感できることで、気持ちのよりどころとなるかもしれない。僕は実際そうなった。

そしてきっとそんな辛い経験をたくさんしてきた人ほど好むであろうと思われる歌が、「今日も雨」だ。

どんな曲か伝えるために内容を簡潔に書こうと思ったが止めた。

簡潔にしようとすると難し過ぎるし、詳細に書こうとすると歌詞をなぞることになる。

とにかく気になったなら一度聴いてみてほしい。

そしてできれば歌詞をしっかりと聴いてみてほしい。

この曲を聴いて他の曲も聴いてみようとなったなら、個人的には「流星」を勧めたい。暗い歌ながら独特のリズムにハマることになるだろう。「卵とじ」もいいかもしれない。卵とじは明るくて聴いていて楽しい。

 

以上でだいたい書きたいことは書いた。

何でこんなことを書きたくなったか。

多分昨日、倉橋ヨエコさんの復帰疑惑を知ったからだろう。

2017年の春にある動画がyoutubeに上がった。

その動画に、検索してもその動画くらいしか情報が出てこない、歌手名と歌が出てきた。

その歌の歌声、リズム、世界観。明らかに倉橋ヨエコさんだった。

同じように倉橋ヨエコさんが大好きな人がブログをやっていて、そのブログで取り上げられていたのをたまたま見つけた。

どうやって辿り着いたかは忘れたが、試しに今「倉橋ヨエコ ブログ」なんて検索すると出てきた。ブログにアクセスするとトップの記事に復帰疑惑の記事がある。

その問題の動画の歌もまた素晴らしく、何度も何度も聴いてしまう。

歌を購入してフルで聴きたい。

その為には少々手間がかかる。

日本の支払い方法ではなく海外の支払い方法になってくるからだ。

だがその手間をかけてでもフルで聴きたい。

そんな魅力的な倉橋ヨエコさんの歌をぜひ聴いてほしい。

C++はいいぞ

専門学校に入学してからプログラムを始めた。

 

Cからプログラムに入門して、ゲームプログラマとして歩み始めた訳だが、触り始めは当然「ポインタ?関数?何それ?」だった。しかしその1年後にはそれなりにゲームを作れるくらいには成長していた。

 

そして2年生になり、C++に触れる。当然始めはオブジェクト指向の考え方が分からず、何をクラス化すればいいのか見当もつかなかった。それが1年後にはDirectX9APIと組み合わせて3Dのゲーム作品を1人で作れるくらいに成長していた。

 

そして今、プログラミングをし始めて2年半と2ヵ月、C++を触り始めて1年半と3ヵ月になる。入学前の自分からは考えられないほどプログラミングに詳しくなった。もちろんプログラミングは奥が深く、特にC++は黒魔術などと言われたりもするくらいの代物だ。まだまだ初級者であるのは重々承知しているが、それでも同じタイミングでプログラミングを始めた周囲の人間の大半よりかはC++に関する知識、プログラミングの考え方は備えているつもりだ。ここが自分の武器になっているはずだから自信を持って言いたい。

しかも最近感じるのが、成長速度が上がっている点だ。2年の就活や3年になってからの一人暮らしのためのバイト2つかけもち、制作、学校や内定先の課題など、忙しい中でどうやりくりするかを考えて実行してきた結果としてタスク処理能力が以前より上がったのは間違いない。そうすることでプログラミングについて何か疑問に思った時も、調べて試して身に着けるスピードが上がっていると感じる。3年の始めよりも今の方が圧倒的にいいプログラムを組める自身がある。どういうふうにプログラムを組むべきか、オブジェクト指向コンポーネント指向、template meta programming(TMP)、いろいろなパラダイムに触れて実践を試みている。

またC++、というよりかはVisualStudioを主に使用しているため、VC++に関しての知識も調べて試している。就活では授業で習っていないことを学んでいるのをアピールに使ったりしていたが、今ではそれが当たり前になっている。疑問に思ったらすぐに調べるくせが付いた。pcでもスマホでも気になれば即座に調べ、そこから気になるリンクがあればそれも踏んで先へ先へ。おかげでpcのchromeはonetabのスタックが大量にあり、スマホchromeのtabが50くらいはある。スマホでもonetabを使いたい。

 

最近は趣味でプログラムを組むようになってきた。こんなクラスはどうだろうと試してみたり、上手くいかなければ同じように考える人もいるだろうとコードの一部をコピペしてそのまま検索をかけたり、実際でてきてこんな考え方もあるのかと参考にしたり、先生や同じくプログラムが好きな友人とプログラムの処理内容や組み方について話すのも好きだ。

少し前に、自作クラスは使用せずC++stlさえincludeすれば使用可能な完全疎結合なクラスができた時は本当に気持ちが良かった。インターフェイスもこれは綺麗だというものができ、実際使ってみて非常に便利だと感じた。作って1月ほど経つが、今でもこのクラスが現時点で自分史上最高のクラスだと思う。チーム制作で作ったクラスなのだが、思わずメンバーに使ってほしいとこぼすほどだった。

また今日はC++でのリフレクションを実装した。これは趣味だ。以前自分で組んでみたが上手くいかず、制作に関して先生に相談しに行ったついでに見てもらったところ解決した。やはりtemplateはエラーがわかりづらい。エラー箇所ばかりに目をやってしまって、本来のエラーを起こしている箇所から目をそらされる。Conceptを、早く。C++17では叶わなかったそうなので最短でもC++20、3年後になる訳だが。

ここ数日でTMPの楽しさに気づいてしまったのでもうC++の沼に足を突っ込んでしまった。templateの特殊化、traitsやsfinae辺りの情報を見た時点でヤバそうと思ったが、traitsを理解して身に着けた段階でもう沼に入っていたのかもしれない。traitsは簡単なのでtemplate沼の入門に向いてる気がする。プログラム好きな友人にtemplate楽しいと伝えるとそのまま「constexpr沼にハマるといいと思います」とのこと。Sproutを作った人の気持ちが少し理解できた気がする。

 

このままだと延々楽しいと語ってしまいそうなのでそろそろ終わりにする。

C++はいいぞ。プログラミングは良いぞ。

初めて自分を素直に出せる人を見つけた

  最近、もっとわがままになって自分を素直に出そう。今まで自分を甘やかしてくれる人がいなかったのだから、せめて自分で自分を甘やかそう。でも睡眠に関しては自分に厳しくしてしっかりと取ろう。普段のパフォーマンスに関わるから。と、自分への接し方を見つめ直したりしている。そうしている内に気になったのが、自分の周りへの態度だ。基本的に同性には自分を素直に出せていると思うのだが、異性には何故かできない。逆に悩みを相談したりなどは同性にはできず、異性にはできる。これが自分でもよく分からない。普段よく接する分には同性のが楽だ。だが相談だとか深い関係になるのは異性のがいい。やはりよく分からない。普段自分を素直に出せない人に対して何故相談できるのだろう。何故普段自分を出せている人に対して相談できないのだろう。もっとわがままになって自分を素直に出そう、と言ったもののこれでは同性にも異性にも自分を出せないのと同じなのではと考えた。

 じゃあ解決策が出たのかと言うと出てない。これを書いていてそれっぽい答えが出るかもしれないが、出るとは言ってない。しかし最近1つ気になることができた。遊んでいて特に居心地の悪さを感じない人がいたからだ。むしろ良かったとさえ思う。

 今まで好きになった人たちに対して「一緒にいて居心地が良い」というのを感じたことがなかった。居心地が悪ければそもそも好きにならない。だから悪くはなかったのだろうが、良いとも感じたことがなかった。居心地の良さは人を好きになるための十分条件であって必要条件ではないらしい。だがほんの少しだけ居心地の悪さを感じていたような気もする。これは僕が好きな人に対して依存する体質があるからだろうが、相手に嫌われることを恐れていたからかもしれない。居心地がそんなに悪くもなく、他にもいろいろな条件が重なって好きになったが、好きになったことがきっかけで嫌われるのを恐れてほんの少し居心地が悪くなる。発言に気を使わないといけないという気持ちが出てきて言葉を選ぶなどする。だから結果的に居心地の良さにマイナスの補正がかかる。

 以上のことを踏まえると、好きな人にだけ自分が出せなくなるのであって、そうでない異性には出せるのでは?という話になる。それがそうではない。では接する異性の全員が好きなのかと言う話になるが、それも違う。が、正解に近い答えにはなっている。接する異性の全員に、この人は僕を愛してくれるだろうかと期待を寄せているからだ。

 僕は親に愛されてきたという実感がない。そのため常に誰かに愛されたいという愛情飢餓な状態だ。最近は気持ちが落ち着いているが、たまに誰かに愛されたくて仕方が無くなることがある。要は寂しくて仕方がないんだろう。親に愛された実感がない人にはわかるかもしれないが、愛されないということは認めてもらえないということだ。子供にとって親は人生でたった2人しかいないかけがえのない人間だ。ましてや小さい頃は基本的にその2人の世話になる。20歳ごろになるとたいていの人は親元を出て働いたりしていく訳だが、人間100歳まで生きるとして、人生の5分の1を親と過ごすのだ。このいかにも子供の人生にとって重要極まりない親に愛されていない、認められていないというのは、子供の人生に重大な欠陥を及ぼす可能性が大きい。その結果が今の僕だ。親という重大な人間に愛されず、認められず、その結果自分でも自分を愛せず、認められない。このことに気づいて変えようと努力はしている。だが、物心がついてから今までずっと蓄えられてきた愛されていない、認められていない悲しさはちょっとやそっとではどうにもならない。そのため今でも自分を愛してくれる人が誰もいない、誰にも認めてもらえないと、寂しくて仕方が無くなる時がある。だから、僕は常に自分を愛してくれる人を探している。愛情に飢えている。だから、接する異性の全員が好きなのではなく、接する異性の全員に、愛されるチャンスがあるかを見ているんだと思う。この人は自分を愛してくれるだろうか。そんな風に見ているのかもしれない。

 じゃあ遊んでいて居心地の悪さを感じなかった、むしろ良いと感じた人は何なのか。これが分からない。単に自分が、自分を愛し認めることができるようになり、他人に愛されなくともある程度どうにかできるようになったのかもしれない。それとも、今まで会って来た異性がたまたま全員相性が悪かったのかもしれない。その人のことが好きかというと分からない。居心地の良さを感じたという点では気になってる。

 今回のことを短くまとめると、「初めて自分を素直に出せる人を見つけた」ということだ。異性には普段から自分を出せない居心地の悪さを感じていたが、それがない人がいた。であれば、その人と相談できるくらいの仲になれば、自分を完全に素直に出せるということになる。なれるかどうかはまた別の話として、そういう人がいたというのが大きい。別にこの広い世の中、自分を素直に出せる人がその人ただ1人とも限らないだろう。1人もいないとなると辛いかもだが、1人いれば他にもいるだろうと思える。何だかゴキブリ扱いみたいだがそういうことだ。

 毎回気持ちを整理したい時にここにこういったことを書いているが、今回もそうだ。だから特に落ちもなく終わる。思ったことを書きなぐって、文章を整理して、読み直すことで気持ちを整理することができる。今自分は何を考えているのか段々と、モヤモヤしたものが鮮明になっていく。特に他人に見られることは考えていない。更新の度にTwitterで流してはいるが、まぁ共感してくれる人がいて、その人の感情の整理にでも役立てばいいなぁという程度だ。だからそんなに他人に見られることは考えておらず、色を付けたりなどして読みやすくするということはしてない。大して文章が上手だとも思わないが、そこまで下手だとも思わないので、共感してくれる人や物好きはこれでも読むんじゃないだろうか。何となく最後にこんなことを書いて、終わる。

わがままになろう

凄い久しぶりに書く。気持ちを整理するために書いてる。

前々から薄々気づいてはいたんだけど、僕は支配欲が強いのかもしれない。

AC(アダルトチルドレン)の症状の一例として、「愛情と支配欲を混同する」というものがある。多分これだ。

結構前からそれらしき部分は見えてたんだけど、気づかないふりをしてた気がする。

僕には何かと人が困ってると助けたくなるところがある。相手が喜んでくれる、感謝される、褒められる、自分も相手も良いことしかない。誰も不幸にならない。一見良いことのように見えるが、僕はこれを利用して裏で相手より優位に立ちたいと思ってる。気がする。

基本的に見返りはあまり求めないようにしてる。しんどい時は相手の好意を求めたりするし、たまに冗談半分で求めることもあるが、何もしないからと言って文句を言ったりすることはない。

でもこれはある程度仲の良い友達の話であり、それらとは別枠に入る人には違ってくる。自分の好きな人。自分を苦しめた人。そういった人には見返りを求めている。好きな人には極力求めないように努めるが、僕の相手に尽くす性格上あまりにも見返りがないと限界が来る。お互いの好意のバランスが保てなくなるとでもいうのだろうか。この尽くすというのも一方的なものになっているんだろうけど。自分を苦しめた人には、言えばサンドバッグになってやったんだから当たり前だろ?といった具合だ。親に対して特に思うし、昔僕をいじめていた人間にも思う。

この「尽くしてやったんだから」、「ストレスのはけ口になってやったんだから」、「言うこと聞けよ」というのが僕の愛情であり、支配欲なんだと思う。無条件ではない、条件付きの愛だ。こんなものは愛情と呼べないんだけども、悲しいが僕にとってはこれが愛情らしい。

何故支配欲が強いということに気づいたのか。

それは時折自分の中で起こる妄想がきっかけだった。

僕は小さい頃から親に甘えることができなかった。

自分のことを褒めずに怒ったり、否定したり、普段の言動もネガティブな事ばかりで、そんな親が嫌だったんだろうと思う。はっきりとした理由もわからず小学生中学年の頃には親を避けていた。

だから僕は、未だ見ぬ誰かに優しくされ甘える妄想をよくしていた。

普通の家庭なら親子間で築かれるであろう信頼の元、与えあえる無条件の愛。

それを僕は小学生の頃からずっと求めている。

小学生高学年の頃、寂しさから妄想で兄弟と遊び、姉を作って甘えていたことがあった。今も誰かに甘える妄想をするのもこれと同じだろう。

しかしそれとは別の妄想をすることもある。

これが気づいたきっかけだ。支配欲を満たす妄想だ。

中学2年の夏休み明け、不登校になった。

主な理由は学校とは関係ないのだが、いじめも理由の1つではあった。そして苦しんでいる僕の気持ちを考えない親の言葉が僕を更に苦しめる。

そんな中僕をいじめた人間や親を支配する妄想をするようになっていた。

設定を事細かに決めていた訳ではないが、とにかく自分が相手より優位に立っていて、相手は逆らえない状態で、自分の思う通りに相手を使う。

ボロボロになった精神を少しでも落ち着かせるための手段だったんだと思う。

これだ。この異常な苦しみが僕の中の愛情の定義を歪んだものにしたんだ。

自分が苦しんで、相手が支配欲を満たして、次に自分が支配欲を満たして、相手が苦しんで。結果的にどっちも良い思いをしてる。本当はプラスマイナス0なのに。本当の愛情はプラスに対してプラスで返す。完璧な人はいないから、そりゃ普通の人も多少は言うこと聞けよと思うかもしれないが、度が過ぎれば歪んだ愛情になる。

親以外の僕をいじめた人間などにも原因は少なからずあるだろうが、やはり親がメインの原因だとは思う。僕と同じ見返りを求める、条件付きの愛しか与えられない人間だからだ。

産み育ててやったから、ご飯を作っているから、学校の金を出しているから、住ませてやってるから、言うこと聞け。

そもそも子供は親が産む産まないを決めるものであって、子供から産んでください、育ててくださいと頼みに来るものではない。

自分が勝手に産んだにも関わらず「〇〇してやってるんだから言うこと聞け」とは身勝手にもほどがある。

産んでくれて育ててくれてありがとうと思うのは子供の自由であり、思うことを強制されるものではない。

結局はこうした条件付きの愛しか与えられずに育ったが故に、自分も条件付きの愛しか与えられなくなってしまったんだろう。それしか愛の形を知らないから。

だからだ。虐待被害者の子供が親になると、虐待をしてしまうと言われるのは。

気づいたなら治せるのかもしれない。

だがこの愛し方は自分が物心つく前から教えられてきたものだ。

しかもその親の元にもう20年近くいる。

人生を100年生きたとして、人生の1/5を共に過ごしてきて、人のことはこう愛するものだと教えられた。

果たしてそれでも治せるか。正直自信が無い。

自分と言う人間の根っこの部分だ。

人間の成長を建築に例えるのであれば、だんだんと完成が見えてきたタイミングで土台となる部分を変えようと言ってるようなものだ。

今更大黒柱の位置を変えることなどできない。

建築に詳しくないから場合によってはできるのかもしれないが、できるにしてもやはり大きな手間がかかるだろう。

人間の根っこを変えるなんてそうそうできやしない。

少なくとも10年やそこらで変わるとは思えない。

同じ20年という時間がかかるかもしれない。その時にはもう40歳だ。

倍の40年かもしれない。もう60歳だ。60年、80歳だ。

仮に努力を重ねて変えれたとしても、その時にはもう老いて、場合によっては死が間近だったり、人生を楽しむ余力も残っていない可能性もある。

酷い世の中だと思う。

死ぬのは怖い。

このまま生き続けるのも怖い。

弱弱しい人間なのはわかっているし、それに苛立つ人もいるだろうが、これは僕の責任の範疇を超えている。

産まれる場所、親、育つ場所、周りの人間、自分が愛されるかどうか、いじめられるかどうか、運でしかない。

僕はゲームは好きだが運の要素が強い、つまり自分の実力でどうにもできない要素が多々あるゲームは嫌いだ。

人生は運で決まる。

あるゲームで、強い人は配られたカードに文句を言わず、そのカードで如何にして勝つかを考えるというセリフがあった。

確かにそうするしかないし、それで上手くいく人もいるだろう。

というか、僕自身も小学生の頃から働きたいと言っていた業界に就職が決まった時点でそれを実践できているんだろう。

しかし、それでも、生きるのが苦しい。

早く楽になりたい。

 

だいぶ気持ちが落ち着いてきた。

 

最近死ぬときはどう死ぬのだろうとよく考える。

昔はいろんな人に愛されて惜しまれながら死にたいと考えていた。

せめて死ぬときはたった一人の大事な人に側にいてほしいとも。

だが最近はそんなこともなくコロッと死ぬんだろうと思ってしまう。

自分が思いもしないタイミングで唐突に「よし、死のう」と行動に移してしまうような気がする。

どう終わるかなんてわからないし、これからどう生きるかもわからない。

ただ誰かに愛されていると感じてみたいし、その人と愛し合ってみたい。

愛されてることに疑いなんて持たず、愛し方に疑問なんて持たず、自然体で無条件に愛し合いたい。

結果がどうあれ僕は今まで生きることをサボったことは一度もない。

不登校になって学校をサボろうとも、人が信じられなくなり人間関係をサボろうとも、いつだって必死に生きてきた。

自分の人生に恥はない。

だからまずは、自分を愛してやろうと思う。

糞ほど辛くても必死に生きてきて、頑張って小さい頃からの夢を叶えた自分を褒めて、労ってやろう。

過度に褒めて労うくらいがちょうどいい。

過度に褒められなかったんだ。僕の苦労を全て話せて、労ってくれる人もいなかったんだ。

少しは話せる人もいたけど、何を言っても受け入れてくれるから大丈夫、という人はいなかった。

他人の目を気にし過ぎず、できるだけわがままになろう。

誰も甘やかしてくれないなら、自分で自分を甘やかそう。

苦しいなら吐けばいい。

何だこいつネガティブだなと嫌われてもいい。

嬉しいなら周りに嬉しいと言えばいい。

何だこいつ自慢したがりかと嫌われてもいい。

結局苦しいのを伝えても嬉しいのを伝えても嫌われるときは嫌われる。

自分に正直に生きればいい。

もうすぐ1人暮らしで親からも解放される。

特に何も抱えていない普通の人よかよっぽど苦労は絶えないだろうが、糞みたいな人生歩んできたならわがままになって楽になってもバチなんて当たらないだろう。

僕はわがままになる。

最近生きてるのがしんどい

 人間何かしら楽しいことがあるから生きてるんだろうが、その楽しみも最低限の生活が保たれていることが前提な気がする。今の日本で言うなら衣食住が満たされている環境だ。そこにプラスαとして趣味などがあることで楽しく生きられるんだと思う。一般的にはそんな感覚で合ってるのだと思う。だが僕は最低限の生活として「誰かに愛されてる感覚」というのが隠れてると感じる。今時衣食住に関しては困る人はほとんどいない。生活保護などもあるからだ。しかし愛情に関してはどうだろう。誰かが満たしてくれる保証は一切ない。たいていは親が愛してくれるけれども、僕のように愛されてなどいないと感じて育ってきた人も大勢いる。そしてこれは生活保護のように事務的に処理できるものでもないため、国の支援などが仮にできたとしても純粋に愛してもらえるということは絶対にありえない。

 親がダメなら恋人だと言っても、親に愛されずに育ってきた人間ほど上手くいきづらい。親に愛されて育ってきた人と違って愛情の欲求が強いからだ。欲求が強いこと以外にも問題のある親であれば悪影響はいくらでも出てくる。そのため愛されようと努力しても空回りしたりむしろ傷ついたりすることがほとんどだ。ここら辺は毒親とかの話になるので気になるのであれば「毒親」とか「アダルトチルドレン」で検索してみてほしい。

 だから生きてても辛いことの方が多い。今21年とちょっと生きてきてるが、辛いことの割合の方が圧倒的に多い。最近はじぶんの努力が上手く実ってくれていてまだマシになってきてるが、それでも8:2くらいの割合だと思う。やはり誰にも愛してもらえないというのは堪える。じゃあ何で生きてるのってなるが、人間、というか動物ならたいていそうだろうけど死ぬのが怖いから。後どうなるかわかりもしないのに未来に希望を持ってしまうから。誰かに愛されたいから。これが厄介だ。死ぬのが怖いのは行動に移してしまえばそれっきり終わりなんだけれど、希望を持つのはどうしようもない。自分が今まで経験してきた苦痛よりも更に大きい苦痛を伴わなければ、これを乗り越えて命を絶つことはできない。つまりは自発的にどうこうできる類のものではないのだ。もし仮に今から死ぬまでの間に誰にも愛されないことが確定していてそれを知ることができたなら、後は怖さだけ克服して行動に移せば死ぬことができる。思い残すことがないからだ。誰にも愛されないことが確定しているならば、誰かに愛されたいから生きるということがなくなる。知らない方がいいのかどうかはさておき確定していて知る機会があれば多分死ぬ道を選ぶと思う。だから僕は最低限の生活として「誰かに愛されてる感覚」が含まれると考える。

 じゃあ衣食住が生活保護で保証されるように、愛情を保証するにはどうすればいいか。これは先ほども書いたように事務的に処理することは絶対にできず、赤の他人がどうこうできる問題ではない。そもそも毒親の元で生まれ育った時点で愛情の問題だけでなく生き辛さを抱えながら生きることが確定するため、後から対処するのも難しい。ならば生まれる前から保証する必要がある。毒親に子供を産ませないようにするのである。どうするのかというと、資格のようなものを設けるのだ。子供を産み育てるのに問題がないか、適正があるかを見るのだ。これが仮に実現すれば良かれ悪かれ今とは全く違った世界になるだろう。しかし案外悪くないのではないかと思う。子供を産むのに資格がいるなんてと思うかもが、今の世の中子育ては一発勝負だ。2人目3人目ならともかく、では1人目は実験台か何かかと思えてしまう。この一発勝負の現状が良くない。新しく親となる人に毒親でないまともな親や、仲が良く親切な友人などがいればサポートがあって一発勝負でも上手くいくかもだが、全員がそうではない。にも関わらず一発勝負で子育てについて学ぶ機会もなしにいきなり子供を育てることになる。僕の親がそうなのだが、場合によっては「子供が欲しいから産む」のではなく、「できたから産んだ」となりかねない。良い親に恵まれればこれでも別にいいじゃないかと思うかもだが、そうでなかった僕からすればこれは最低だと思う。1つの命を産むことの重大さをわかってない。欲しいから産むのは自分が今からすることの覚悟がある程度できてる人のすることだ。できたから産むのは覚悟も何もできてない人がすることだ。子供がどんな人生を歩むかなんか誰にもわからない。幸せに生きるかもしれないし、不幸を感じながら自殺するかもしれない。幸せになれればいいが、ひたすらに苦しみ続けている子供の責任は誰が負うべきか?それはその子を産んだ親だ。だからこそ親は子供が幸せになれるようサポートをするべきだし、親元を離れてからももしもの時は頼れるセーフティネット、命綱であるべきだ。実際になれなかったとしてもそうなる努力をするべきだ。というかまともな親ならこれを言われなくても実践している。少なくとも子供の人格を否定したりはしない。

 だからこそ子供を産むこと、命を1つ作り上げることの重大さを学ぶために資格を設け、取得していなければ子供を産んではいけない決まりにするのがいいと僕は考える。でないと毒親が子供を産み、その子供が親の毒により悪影響を受け、その人自身が毒親と化す世代間の負の連鎖がいつまでも止まらないだろう。毒親は日本に限った話ではないが、日本は自殺大国などとも呼ばれ、毒親問題はその一旦を間違いなく担っていると考える。それを解決するための1つの手段として、子供を産むことに資格を設けることはそう悪くない手段だと思うのだが、これを読んだ人はどう思うだろうか。

面接で気を付けたいこと

 面接って今まで何かと準備や心構えをして臨むものだと思っていたけど、今就活をしていてそんなことないなーと思ったのでちょっとまとめたくなったから書く。

 

 面接の目的って結局は自分がどんな人間かを知ってもらうことだと思う。履歴書とかエントリーシートだけじゃわからない詳細な部分を知ってもらって、そのうえで自分がその会社に合うかどうか判断してもらう。だから、ネットで調べて面接では〇〇すべきだ!なんて書いてるのをそのまま真似ても取り繕ってるだけだからボロが出やすいし、出なくても入社後に合わない訳だから困る場面も出るかもしれない。結局は自分の素を見てもらってそれで受け入れて貰える会社を探すしかない。だから面接に向けて練習すべきなのは如何に取り繕って自分を良く見せるかではなく、如何に自分がどんな人間かを伝えることだ。

 

 自分がどんな人間か知ってもらうためには自分を説明しないといけない。説明する時に気を付けないといけないのが、まず結論から話すことだ。例えば自己PRをしてくださいと言われたとする。当然履歴書に書かれてることとは別のことを言う訳だが、その時に私は〇〇で△△で▢▢だから◇◇です!と結論を最後にしたとする。そうすると、それを聞いていた人は最後の◇◇の部分に至るまでの内容を全て記憶している必要がある。これはなぞなぞをしている時と同じ状態だ。「それは四角くて茶色で、食べると甘いものです。…答えはチョコレートです」。例えが下手で申し訳ないが感覚が似てるのはわかってもらえただろうか。四角いという説明をした時点で無数の物が浮かぶ。茶色でだいぶ絞られるだろうが人に寄ってはテーブル、レンガなどを思い浮かべる。食べると甘いでようやくチョコレートだろうと予測がつく。このように解答であるゴールを予測し、かつ内容を覚えておかなければならないことは聞いている身としては少々しんどい。今は文面なので読み返せるが、面接であれば会話だ。先ほどのチョコレートの話を結論から話すとすると、こうなる。「チョコレートは食べると甘く、四角くて茶色いです。」どうだろうか。同じチョコレートの説明であることに変わりはないが、受け取りやすさが断然違う。四角、茶色、甘いの3つの要素を使ったチョコレートの説明でこの違いだ。これが自己PRとなるとどうだろう。3つで済むだろうか?済むとすればそれは内容の薄い自己PRとなり、結果として伝わったとしてもあまり好印象ではないだろう。要素を多くしてより自分のことを詳しく知ってもらいつつ、好印象を与えるにはやはり結論をまず話すことを推奨する。これはもはや癖のレベルなので普段から意識するしかない。

 

 もちろん面接では他にも気を付けた方がいいことはたくさんあるだろうが、何よりも気を付けるべきなのがこの説明の仕方だと思う。結論を始めに話すことで相手に負担をかけずに済むからだ。面接では自分のことをより多く話すべきだが、相手に負担をかけてしまっては相手が早く終わらせたいと思ったりして、途中から話を雑に聞きかねない。一番始めに書いたが面接は自分がどんな人間か知ってもらう場だ。例えどんなに凄い技術力と優しい人間性を持っていたとしても、それが伝わらなければ意味がない。特に人間的な部分というものは履歴書ではほぼ伝わらない。自己PR欄で伝わるかもだが、スペースが限られているし、そのすべてを人間的な部分で埋めるのももったいない。となると伝わりづらいのだ。技術的な部分は大会に出たとかを書けば例え短くてもアピールできるが、人間的な部分に関しては資格や大会などがない。あったとしてもマイナーなためアピールとしては正直弱いだろう。そうなると面接で知ってもらうしかないのだ。伝える能力というのは仕事でも必要だし、いわゆるコミュニケーション能力の一つだ。普段から結論をまず話す癖を付けるだけで説明する力が変わるため、説明が下手だと感じる人はやってみてはどうだろうか。