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僕の観察日記

僕が感じたことを書いていき、自分のことを観察、記録するブログ

奨学金って何で給付型じゃないの?

日本の奨学金が何故貸与型なのかが気になる。

以前からずっと気になってるのだが、何故給付型ではなく貸与型なんだろう。

奨学金はこの国に住む学生が家庭の事情などで大学や専門学校などへの授業料が払えないから、貸してもらうお金だ。

そして働けるようになってから、こつこつと返していくものだ。

しかし、何故貸すのだろう?

何故それを返さないといけないのだろう?

今までにお金を貸してもらってそのお金で学校に行き、そして働けるようになってからお金を返してきた人たちがいる。

だから、そのループを崩さないためなのはわかる。

しかし、中には奨学金を返せない人たちがいる。

その人たちのことを自業自得だと言うのは簡単だし、事実お金を借りるタイミングで安易に借りてしまっている人もいるだろう。

では返せる人と返せない人の違いは何か。

それは、判断能力の有無だ。

その年ならお金の重要さが分かるだろうとか、もっと勉強して安い国立に行けばいいのにとか、思う人もいるかもしれない。

しかし、考えてみてほしい。

幼稚園児くらいの子供に、「うちの家庭はお金がないから…」とか言って意味が分かるだろうか。

これは極端な例だが、その年ならと言っても人によって成長速度が違う。

更に言えば家庭、環境によって違う。

自分がその年でそうだったから皆そうだろうというのは安易な考えでしかない。

判断能力がないのは本人の責任ではない。

子供は育つ環境を選べない。

判断能力とか、そういった人間が生きる上での重要な能力というのはたいてい環境で学べるか否かが決まってしまう。

途中から環境が変化して少しづつでも身に着けていくことができている人もいるが、そうでない人も多い。

ないなら身に付ければいい、重要なのに身に着けていないのは本人の責任。

果たして本当にそうだろうか。

 

この奨学金が返せない人の問題、何が厄介かと言うと、お金のない家庭というところだ。

全ての家庭がそうでないことを前置きしておくが、お金のない家庭というのは何かしら問題を抱えていることが多い。

ドラマだとか漫画だとかでもよくある気がするが、お酒やギャンブルにハマった親の間に生まれた子供などがそうだ。

こういった環境で育った子供に、他の家庭の子供同様しっかりと生きていける能力が備わっているだろうか。

もちろんしっかりと生きているように見える人もいるかもしれないが、酒乱の親のことがトラウマで少し怒られただけで過去の映像がフラッシュバックするだとか、そういったものを抱えてたりもする。

トラウマや問題を全て振り切って強く生きれてる人もいるかもしれないが、やはり数が少ないのは断言していいと思う。

ギャンブル狂はわかりやすい例だが、一見普通に見えて問題を抱えている家庭もいくらでもある。

お金がない上に子供がいるとそれだけ生きるのに必死になるのはわかるが、お金の工面だとか仕事に追われ過ぎて子供の衣食住だけ満たして、子供の心には一切見向きもしないなどがそうだ。

そうして親に興味を持たれなかった子供が問題を抱えて育っていくと、奨学金を返せない、判断能力のない子供となる。

もしくは、返そうと必死になって勉強もバイトも一生懸命にやる。

そして頑張り過ぎて潰れてしまうなどというパターンもある。

本当に本人の責任だろうか?

お金がない、そしてそれ故子供に負担をかけてしまうのは親の責任だ。

だが、そもそも奨学金が貸与型ではなく、給付型。

つまり返さなくていいものなら、返せないと言う人は0になるし、返すために必死になって潰れてしまう人もいなくなる。

これが、僕が奨学金が何故給付型でないのかと思う理由だ。

 

会社で働くために学校で学んで、会社で働いて国を動かす。

学校で学ぶのは個人のためでもあるが、多のため、国のためでもある。

何故子供たちが学ぶお金を国が出さないのかが疑問だ。

しっかりと納得のできる理由があるのならいいのだが、僕は今までそれを見聞きしたことがない。

もし、この辺りの事情に詳しい人がいるのなら教えていただきたい。

経験って大事

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//何で勉強できるようになったのか

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中学時代から比べて良い方向に成長してきてるのは何度も書いてるが、勉強に関しては何でできるようになったのかよくわからない。

小学校でも特に成績が良かった訳でもないし、中学でまだ学校に行ってた時もどちらかというと勉強はできなかった。

高校ではそこそこだったが、そもそも僕のような中学不登校とかそういった人が多い場所だったので全体で見たら結局勉強はできない。

なのにこの学校に来てからは成績が優秀な方になり、ゲームを作る学科なのだがそこで上位に選ばれたりもするようになった。

勉強に関しては特別上位に入ってやろうとか頑張って良い物をとか張り切っていたわけではない。

僕にとってはこの学校に来てからの期間はリハビリ期間だ。

中学で大きく傷つき、高校で休んで傷を癒し、今の学校で徐々に復帰するための行動を起こすと言った具合だ。

だからそんなに張り切るのはむしろ僕にとっては無茶なことだったし、今でも自分のペースで頑張るのが大事だというスタンスは貫いている。

なら何故勉強できるようになったのだろう?

 

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//成長に必要な要素

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少し考えて二つ、これが理由かなと思うものが出てきた。

一つ目は興味があることだったから。

二つ目は単純に成長したから。

今までは自分の学んでる事に特別興味がなかったし、何か周りがやってるから自分もやっとこうくらいにしか思ってなかった。

それが初めて自分でこの学校に行ってこのようなことを学びたいと思って今ここにいる。

その差は大きい。

やはり興味が持てたものに対しては人は積極的に知ろうとするんだろう。

プログラムだけじゃなくIT関連のことはたいてい興味があって面白そうだと思っていたのが良かったのか、今のとこ資格試験は全て一発合格をすることもできている。

ギリギリの点数だったりもするが。

人は、何かしら考えて生きている限りは成長する。

ほとんどの職種は考えて仕事をしなければいけないが、今学んでいることは特に物事を考えて頭を鍛えるのにはいいと思う。

それを繰り返すうちに自然と成長をしていたのだろうと思う。

プログラムとかではないが、考えるだけなら中学、高校でも相当考えていた。

中学時代は学校に行くことも外に出ることもなかったのでゲームばかりしていたが、それでもゲームに常に集中している訳ではなく、隙間隙間で物を考えることもあった。

何でこんな辛い目に合わないといけないんだろうとか、親と仲良くできている人が羨ましいとか、ひたすら悩みに悩んだ。解決はしなかったが。

中学の時は快適なネット環境もなかったので積極的に調べることもなかったが、タブレットを手に入れ快適にネットを見ることができるようになった高校三年からは、そういったことを調べるようにもなっていった。

このように悩んだり、調べたり、考えたりすることで人は成長すると思う。

これを繰り返せば何かに行き詰ったらすぐに調べようだとか、人に訊こうだとか、そういう癖もつく。

何か悩みまくって解決しそうにないことがあれば、状況によっては気にしなくてよいことだからその悩みを捨てるだとか、単純に悩みを解決するのではなく、悩みを捨てるのも一つの手だということを知ることもできる。

何度も悩んで調べて考えてを繰り返すことで経験が積まれていくのだ。

それが成長に繋がる。

 

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//経験の差

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多分、小さい頃から勉強できて人間もできてるなんて人は、その時点で経験量が凄くあるんだろう。

逆に僕みたいに勉強も人間もできてないような人間は変わろうと思ったら必死に経験を積むしかない。

だから、この学校に来てから色んな人と接するようにしたり、学んでいることに興味を持てた僕は大きく変わることができた。

もし僕が経験を積めてなかったら、上位に入ることもできず、発表でも酷評されるようなものを出していただろう。

結局経験の差だと思う。

経験をしていないこと自体に全く罪はない。

僕自身がそうだったが、生まれ育った環境によってはほとんどのものに興味を持たないような人間も育ってしまう。

興味を持たないが故に挑戦をせず、成功も失敗も学ばないままダラダラと生きてしまう。

僕はゲームがあったから良かったが、もしこのような学校がなければ人生は積んでいただろう。

こうも変わることもなかった。

もしくは、「作る」ことに興味がもてずにいるという可能性も十分あり得た。

僕がこの学校に来る前と同じ状態なら間違いなくそうだからだ。

だから、僕は勉強ができなかろうが能力がなかろうが本人に罪はないと考える。

前にも書いたがそれは環境が作り上げた性格だ。

色んなことに興味が持てない故、挑戦し、成功・失敗を学べないのは本人のせいではない。

普通は挑戦を繰り返して色んなことを学んでいき、その過程で自分というものができあがっていくんだろう。

それを自然とできる環境下で育ったならいいが、そうでない人も多くいる。

僕は偶然が重なってどうにか良い方向に変われた。

でも、辛かった時のことを忘れることは多分一生ない。

 

いつからか、僕は自分にこう言い聞かせるようになった。

「今までの自分を作り上げたのは環境だ。

だから、自分が悪いと責めることは一切しなくていい。

周りが何と言おうと悪くない。

ただ、成長しようと思ったら、反省と挑戦はしないといけない。

反省して何がいけなかったのか悩んで、調べて、訊いて、そして得た情報や経験で次こそと挑戦する。

これを繰り返しているうちにいつかうんと成長している。」

 

一つ注意したいのが、今までの自分を作り上げたのも確かに環境だが、これからの自分を作り上げるのも環境だ。

自分がやるべきことはその環境選びだ。

僕の場合やったことが学校選びだった。

多分、親が探したと言っていた短大では僕はこのように良い方向に変わることもなかった。

特に興味をそそられるものがなかったからだ。

親はお前のためだと言って何かとすることがあるが、そういった親に限って本当に考えてなどいない。

そう言う親が全員とは言わないが、少なくとも自分の親がそうだという経験則に基づいての意見だ。

これからは自分で物を選んでいくようにすることが変わるための第一歩だ。

自分で選んでダメだったと、失敗したならそれでもいい。

それは挑戦した証拠だ。

それを繰り返すんだ。

 

最後に。

今までの自分を作り上げた環境のことを恨むだろう。

僕も親が嫌いだ。

その親をまともに育てなかった親の親も嫌いだ。

養育費とやらを払わずにどこぞへ行った方の親も嫌いだ。

辛い思いをしていた時、何も助けずに親の味方だけしてた親戚も嫌いだ。

恨むのは当然だ。

だから好きなだけ恨んでいい。

そのうち恨み疲れてどうでもよくなる。

さっき書いたのも昔は嫌いだったが今はどうでもいい人も多い。

でも、今は学校という環境を自分で選んで変わることができた。

今では嫌いな人より好きな人の方が多い。

愚痴よりも感謝の方が多く語れる気がする。

こんな自分を作り上げたのも環境だ。

変われたのなら是非環境に、周りの人たちに感謝しよう。

もちろん強制なんかではないが、調子にのって一人で変われたなんて思ってはいけない。

変われたきっかけをくれた人でも、変わってから出会って良くしてくれた人でも、勉強を教えてくれた友人でも、いろんなことに興味を持たせてくれた友人でも、分かりやすい授業をしてくれる先生でも、大きなことから小さいことまで自分に良い影響を与えてくれてる人はたくさんいるはずだ。

それに気づけばもっと成長できるはずだ。

そうしたら今度は自分が誰かを助ける番になろう。

自分が成長して誰かの成長の手助けをする。

僕はそういう生き方が素晴らしいと思うし、そうして生きていきたい。

タイムマネジメント

以前「すぐに行動するために」の記事でも書いたが、僕は理解力などはあるのだが制作などの作業に手をつけることがなかなかできない。

その記事でも書いたようにまずは睡眠も大事なのだろうが、時間の使い方も凄く大事なのだろう。

最近ネットのどこかでタイムマネジメントという言葉を見た。

まぁ意味は聞いただけでだいたい予測できるが、時間の使い方をコントロールすることを目的として行う行為だ。

それについて少し調べてみた。

 

まずやることとしては、タスクを洗い出すこと。

何も考えずにただ目標としていることを達成するには何が必要かをひたすら書き出していく。

次に優先順位をつけていく。

僕が調べたところでは4つほどに分類するとよいらしい。

  • 重要でかつ緊急なこと
  • 重要だが緊急ではないこと
  • 緊急だが重要ではないこと
  • 緊急でもなく重要でもないこと

といったように、緊急性だけでなく重要性も併せて考えることが大切だとか。

 

そして実行に移る。

そこで大切なのは実績を記録することだそうだ。

僕が見たとこでは15分もしくは30分単位とか書いてたが、ちょっと短すぎるような…?

タスクを洗い出して優先順位を決めた後に、今日はこのタスクをやるぞと決めておいて、それらが達成できたかどうかを確認するのでもいいかもしれない。

 

また、タイムマネジメントを上手く行う上で気を付けるべきこともいくつか書かれていた。

  • 大きな目標を実現するためには目先のことを捨てる勇気も必要。
  • 忙しいから計画を立てられないではなく、計画を立てないから忙しいのだと思考を切り替えること。

  •  時間の密度を上げるには、明確な目標と明確な報酬が必要で、スピードが上がらない、やる気が出ないということは目標と報酬のどちらかが欠けている

  •  常に木を切ることに忙しくて斧を磨くことを忘れていないか?自分を客観視しよう。

 

特に最後の言葉は大事だと思われる。

身近な例ではないからわかりづらいかもしれないが、簡単に言ったら「モンスターハンター」で攻撃することに忙しくて砥石を研ぐのを忘れていないか?ということだ。

いくら攻撃を続けても攻撃力が低い状態で攻撃していては結果的に遅くなる。

しかも弾かれる。

忙しい時にこそ余裕を持とうということだ。

 

タスクを洗い出したり、優先順位をつけたりは今回の制作を始めてからし始めたが、まだ上手く管理はできていないように思う。

もう一度タスクをざっと洗い出し直し、優先順位も付け直そうと思う。

そしてこれらを実行するために、しっかりとした睡眠が必要なのだろう。

もうすぐ国家試験だが、夜遅くまで勉強してそれが終わって落ち着いてから生活リズムを…とか普通ならなりそうだが、そうではなく少しでも早く現状を改善するなら今夜からでもしっかりとした睡眠を取ることを意識すべきだ。

僕は現状学年の中では真ん中よりかは上の位置にいるとは思う。

それで満足はしない。かと言ってそのような自分を情けないなどと否定したりもしない。

僕の最大の武器はこのように自分を客観視して成長させるのが上手い点にあると考えている。

何度も記事に書いてるのでもう一々長々と書かないが、この学校に来てからの成長具合は自分でも驚いている。

勉強方面でも人間関係の方面でもだ。

就活でもこれをアピールポイントにしていきたいと考えている。

技術が飛び抜けている訳でもなければ、完成度が高かったり制作スピードが速い訳でもない。

しかし、こうして自分自身を客観視してそれらを確実に実現していくことができるのが僕の強みだ。

今すぐは無理でも、少しずつなら変えていける。

少し前まではさっさと行動できない自分を嫌うところがあったが、最近はなくなりつつある。

これから死ぬまで成長し続ける。

 

人間皆考えることを止めなければ死ぬまで成長できる。

自分に対する自信

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//ある悩み

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今僕はあることで悩んでいる。

さんざん解決するために調べ回ってたらどうも自分に自信がないことが原因らしい。

どう検索して調べても自分に自信がないからそうなると書かれている。

しかし、自分としては中学から散々だったのにも関わらず、ここまで変わることができたのは自慢できるところだと感じているし、皆ができて当たり前だとも思わない自分のいいところだと思っている。

今でもこうして欠点があれば改善するように努めている。

おそらくずっとやってきたゲームで培ったであろう、向上心と粘り強さを武器にここまでやってきた。

ではどうして自信がないのか。

自分に自信がないと一言に言っても、自信のある箇所とない箇所がある。

スポーツでもバスケはできるがサッカーが苦手で自信がないだとか、ゲームでもアクションは得意だがパズルは苦手だとか。

つまり、僕は自分の内面部分にはそれなりの自信を持つことができているのだけれど、今現在悩んでいる部分には自信がないのだ。

 

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//愛される自信

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僕は人に愛される自信がない。

多分、これも小さい頃から親やその周りに大事にされていると、愛されていると感じてなかったことが原因だと思う。

僕は小学生時分に癖があった。

上の歯で下唇を抑えつけるという癖だ。

それが原因となってまだしっかりと定着していなかった幼い僕の歯は徐々にズレていき、今のように歯が出ているようになった。

癖というものは自分にかかっているストレスを緩和するために行われるものだと言われる。

となると幼少期から相応のストレスがかかっていたと見られる。

母方の祖父母が立て続けに入院、亡くなった時期だったので、親が家に帰ってきてもいないことも多かった。

あの頃の記憶で鮮明に覚えてることが一つある。

当然幼い自分は「死ぬ」とういことがどういうことかわかっていなかった訳で、一人目が亡くなった時は特に何とも思わなかった(一人目と表現しているのはどっちが先に亡くなったか覚えてないため。確か一年しか違わなかった気がする)。

しかし二人目の通夜の時、「あぁ、またいなくなるんだな」とぼんやり思った記憶がある。

寂しく思ったのか少し泣きそうになったのを覚えている。

その時少し手に力が入ったのだろうか。

手を繋いでいた親がどうしたのかと訪ねてきた。

僕は無言で首を振った。

その時の通夜のワンシーンを何故だかずっと覚えている。

二人が亡くなる前にも5歳の頃にインフルエンザの菌が脊髄に入り、それなりに重い病気だったらしい髄膜炎になって6歳の誕生日を病院で過ごした。

そして6歳、7歳と立て続けに祖父母が亡くなった。

そのタイミングで父親と完全に縁が切れ、これを機にと尼崎から神戸へと引っ越してきた。

今思うとその歳の子供には相当ストレスがかかるだろうことが予想できる。

引っ越しも小さい子供にとっては住む環境が大きく変わるためストレスになることもある。

実際、引っ越したのは小学校二年生の夏だったのだが、学校が変わるのを嫌がって泣いていた覚えがある。

親も大変だっただろうために仕方がないのだろうが、親は自分の親のことばかりで僕のことはあまり構ってくれなかった。

これでは自分のことを周りが大事にしてくれていると、愛してくれていると自信が持てなくなるような気もする。

こちらに引っ越す前はもう断片的にしか記憶がないが、こちらに引っ越してきてからは親のことを何だか避けていた。

友達と話しているのを聞かれるのも嫌がった。

特に何かがあった訳ではないのだが、無視したり何かと親の言うことを聞かなかった。

今にして思うと純粋に愛されていなかったこともあるんだろうが、その時のストレスも大きく影響していると思う。

 

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//条件付きの愛

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純粋に愛されていなかったというのはどういうことかというのはやはり気になる人が多いだろう。

「条件付きの愛」というのを聞いたことがあるだろうか。

これは簡単に例を示すと「〇〇してくれたら〇〇してあげる」という愛の形のことだ。

逆に言えば、「〇〇しなければ〇〇してあげない」とも取れる。

つまり、親の期待に子供が沿えなければ子供は愛情をもらえないのである。

よくドラマなんかであるようなのを例にすると受験勉強をひたすらさせるような親だろうか。

「あなたのためなんだから」「勉強しなさい」「ここまでの範囲終わらなければ今日のご飯は抜き」

そして期待に沿えなければ「どうしてこんな点数を取るの」「ダメな子ね」

酷くなると「あんたなんか家の子じゃない」

どうだろうか。

これが純粋に子供を愛してると言えるだろうか。

こういった親のことを「毒親」という。

そして毒親の元で育った子供のことを「AC」アダルトチルドレンという。

ACについては長くなりそうなのでまた今度まとめてみたいと思う。

気になる人はぜひとも調べてみてほしい。

また、自分がその毒親に育てられたんじゃないか。自分はACなんじゃないかというのであればすぐに調べてみてほしい。

僕自身高校生の頃にこれを知ったのだが、自分はやはり悪くなかったと心の負担が減った。

僕の場合は受験ではなかったが、それでも似たようなことをしていた。

小学生の頃はそこまで目立っていなかったが、少しあった。

覚えているものとしては、周りの友達がお小遣いをもらっているのが羨ましかったので欲しいと言うと、何か手伝いをすれば上げると言われた。

これくらいで済めばいいのだが、これを言った時点で少し毒親の性質が見え隠れする。

誰しも完璧な人間などいないが、自分で気づいた場合はぜひとも改善してほしいものだ。

他にはよく他人と比べられた。

「あの子は〇〇してちゃんと親の手伝いをしてて羨ましい」「あの子はいい子だ」「家は誰も手伝ってくれない」

手伝いやその他親の気に入ることをしなければ愛情を与えられない典型例じゃないだろうか。

今でも言われるが、小学生の頃から散々言われ続けてきた。

そして完璧に毒親としての本性が見えたのは中学で不登校になってから。

散々喧嘩した中で何度も言われた。

「親の言うことが聞けないなら出ていけ」「普通の子はこんなことしない」「産まなきゃよかった」

親にとって満足いくことをしなければこうして愛情を与えられることはなくなる。

そして僕の親の何よりも質が悪いのが「謝らないこと」だ。

「普通の子はこんなことしない」というが、自分のことを普通だと思っている。

普通だったらこんなにも子供に嫌われるだろうか。

条件付きの愛が果たして普通のことなんだろうか。

 

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//恋愛依存

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僕が中学不登校になったのはある人に恋愛依存していたことが原因だ。

付き合っていたと言っていいのかわからないが。

その人が僕のことを大事にしてくれたのは確かだ。

その人がきっかけで不登校になったのだが、そのきっかけさえももしかしたら僕のことを考えてのことだったのかもしれないと思う。

でないと説明がつかないような行動をしていたからだ。

しかし当時の僕はそれがわからず、愛される自信がない故に常に側にいてほしいと依存した

親に愛されなかった分をその人に求めた。

親の役割をその人に求めた。

当然親の役割など親になってからでないと持てないし、ましてや同年代に対してなど難しいにもほどがある。

だから依存すると上手くいかない。

そして僕の中学時代はむちゃくちゃに終わった。

高校時代の4年間を心の傷を癒す期間に費やすことになったが、その間にあの人は僕のことを最後まで大事にしてくれたが故にあのようなことをしたのでは、ということに気づいた。

ただの妄想かもしれないし、本当かもしれない。

だがすぐ側にいた間本当に幸せだったことは覚えてる。

それに気づいたことが良かったのか、今はその時と比較すればさほど依存はしていない。

あの時が酷過ぎただけなのだが。

だがやはりまだ愛される自信はない。

だいぶマシになっているが、まだだ。

まだ依存してしまっている。

中学時代、幸せになろうと努力しても上手くいかないことが辛かった。

高校時代、毒親やACのことを知り、こうなったのは環境のせいだと環境を恨んだ。

そして今、環境に対して恨みはありつつも自分を変えなくてはと日々考えて行動している。

まだまだわからないこともあれば、自分が普通だと思っていたことが普通じゃなかったりと、育った環境による悪影響はたくさんある。

それに気づく度にこんな環境に生まれ育ったことを悔やむが、今は自分で見つけた学校での環境が居心地がいい。

専門学校も自分で選んだ。

初めてそういった人生の大きな分岐点のようなものを自ら選択した。

自分がやりたいことをやるためにはこのままではダメだと、人と関わるのが苦手な中ひたすら人と接するようにした。

今回の悩みや、同時に抱えている作業が遅いという悩みだってきっと変えてみせる。

すぐに行動するために

僕は理解力はあって勉強はできるのだが、いかんせん制作などの作業に集中することができない。

すぐに行動ができないのだ。

知識はあるのに実務能力がないのはもったいない。

以前先生に制作の相談に行った時もソースコードはしっかりしてるのに実行結果が見合ってなくてもったいないと言われた。

その通りだと思う。

そのことからすぐに実行に移すために何が必要かいろいろ試行錯誤していたところ、ある本を見つけた。

「すぐやる!「行動力」を高める”科学的な”方法」というタイトルで、精神論ではなく科学的観点で行動力をつけるという内容だ。

著者はリハビリテーションの専門職である作業療法士で、人の脳や体の力を引き出し、できないことをできるようにするということを仕事にしているようだ。

例えば脳を損傷して腕が動かせない人がいるからそれを動かせるようにサポートしたり…。

そうやってできないことをできるようにする。

それはリハビリに来ている人たちだけではなく、普段から通院などせずに普通に生活している人たちにも当てはめることができる。

例えば、やらなきゃいけないことがあるのにやる気が起きなくて手が付けられない…。

体がだるい…。ついスマホを見てしまう…。

通院していなくてもこうしてできないことがある人はたくさんいる。

それをリハビリの知識を活かしてできるようにする。

それがこの本の内容だ。

精神論などではなく、科学的に脳のコンディションを整えることで自然とできるようにする。

特に、始めの方に書かれているのだが、睡眠については注意すべきだ。

自分もそうなのだが、睡眠不足や質の悪い睡眠をとっていると脳のコンディションが整えられず、それでは脳も活発には動かない。

体に指令を出すのは脳だ。

その脳の状態が芳しくないのだから、体を動かして積極的に作業をするなど難しくて当然だ。

そして本書を読んでいて一番印象に残ったのが「睡眠はその人の問題解決の仕方がそのまま出る」というものだ。

睡眠不足になればエナジードリンクなどを飲んで対処したりなど、睡眠不足になりやすい人は問題が起きてから対処する。

逆にそうでない人は睡眠不足にならないように普段から気を付けて予防をしている。

これは睡眠だけではなく、他の事柄にも当てはまるとのことだ。

自分自身これが正に当てはまると感じた。

それ故一番印象に残っているのだろう。

そしてこれを解決するためにやるべきことが書かれている。

まぁ考えればすぐにわかるようなことなのだが、それこそなかなか実践ができず「すぐにやれてない」ことなのだ。

この「すぐにやれない」を解決するためのことが豊富に書かれている。

僕は睡眠を正しく取り、脳の状態を整えることから始めようと思う。

すぐにやらないといけないのについサボってしまうという人は一度手に取ってはどうだろうか。

誰でもコメントできるようにしました&他人に意見を言う前にすること

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//コメント

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先日、初めてコメントがついた。

コメントくれた方、わざわざ長く拙い文章を読んだうえでのご意見ありがとうございました。

その時に気が付いたんだけれど、今までログインしているはてなユーザーしかコメントできないようになっていた。

だいたい設定は目を通したつもりだったんだけれど、ちゃんと見ていなかったようだ。

どちらかというと色んな人が意見したいと思った時にできる方がいいので誰でもコメントできるようにした。

まだブログやり始めて半年も経ってないからよく分かってないことも多いのだけど、設定の文面を見るにこれで誰でもコメントできるはず…。

まぁ、あまり多くの人が見てる訳ではないから、そうそうコメントなんて付かないだろうけど。

しかしせっかくやっているのであれば少しでも多くの人に見てもらいたいという気持ちはある。

コメントも付けばそれが肯定意見であれ反対意見であれこういった考え方もあるのだと、自分の中にはなかった解釈があることもある。

今まではブログだとかTwitterだとかであえて狙って反響を呼ぶようないわゆる炎上商法をする意味がよくわからなかったが、少しだけわかった気がする。

狙っていなかったり単に愚痴を吐いただけで炎上したというパターンもあるだろうが。

 

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//炎上商法

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ブログとかだと話題のニュースについて自分の意見を書いてみる、とかだろうか。

思ったことを書くといういつも通りのスタイルでそれについて書いてる人もいるだろうけど。

思ったから書くというのは僕もそうだ。

僕の場合、故意に炎上とかそういうネタなりについて書いてアクセス数をばんばん稼いだところで本業でもないのにやる意味は薄い。

むしろそういうことを続けてたら狙ってやってるとなって読者は去っていくと思う。

まだ半年もブログやってない経験の浅い者の意見ではあるけど。

狙ってやってる人に限ってだが、炎上ネタは言ったら拡散希望の目印だと思う。

しかしそういう拡散希望みたいなのはどうも拡散する気が失せる。

押しつけがましいと言うか。

失くしもの探してますとかならするが。

だから自分から拡散希望の印をつけるのは何だか違う気がする。

少なくとも僕はそう思う。

現状Twitter以外で外に広めようとかしてないし、炎上することなどあるのかわからないが、もしそうなったとしても故意ではない。

 

 

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//意見を言う前にすること

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その上で少し気になったことを書こうと思う。

先日、あるブログで大学を中退して企業すると言った人に対して結構な反響があったらしい。

あまり他人のブログとかはチェックしてないのだが、Twitterのタイムラインに出てきたほどなので「あぁ何かあったね」くらいには認知してる人も多いんじゃないだろうか。

軽くだが調べてみた。

そしてその当人から相談を受けていたという人のブログを発見。

その人も学生を辞め企業した人らしい。

そこでなるほどと思う言葉を見た。

「誰かに助言をするのであれば、自分はその分岐点を経験したことがあるのか?を考えるといい」

確かにそうだと思った。

でないと的外れな意見しかできないことが多いのは僕も実感している。

一つ前の記事でも書いたことだが、良い環境で育った人は酷い環境で育った人の気持ちがわからない。

その逆も然りだ。

だから、酷い環境で育った人がそうでない人に相談をしようものなら、「何でそこで〇〇しなかったの?」と当然の如く的外れな質問をしたりする。

過酷な環境で育った場合精神的な成長が遅くなる人が多い、とういのが僕の中で前提としてある。

必ずしもそうとは言わないが、主に親、そして周りの人にまともなコミュニケーションを取れる人が少ないと、それが当たり前となり、そうでない人との関係を築くのが難しくなる。

その結果交友関係が狭くなる。

人は他人と触れ合うことで色んな考え、物の見方に触れ、それを吸収、栄養源として精神的な成長をするものだと思っている。

だから、交友関係が狭いと精神的な成長も遅れるのである。

少し長くなったが、それ故成長が速い、もしくは一般的な人ならその歳にはできていたことも、成長が遅い人にとってはできないことも多いのである。

ましてや精神がボロボロな人に過酷な環境に立ち向かえというのは無理難題である。

精神ではなく肉体で例えるなら、既に体中に軽重含め損傷している箇所があり、場合によっては欠損等もあり得る。

その状態で戦うなど無理だ。

僕はこう考える。

 

確かに僕も経験したことがないにも関わらずアドバイスなどをしたくなることはある。

自分ならこうすると。

しかし、経験がない分その状況のシミュレートができないのだ。

シミュレートしても楽観的に考えがちだ。

何故かと言うと、そもそもアドバイスする側にされる側にとっての前提が頭にないことが多い。

これは経験がないのだから仕方がない。

だからこの言葉、「誰かに助言をするのであれば、自分はその分岐点を経験したことがあるのか?を考えるといい」という言葉は、大事にしておくといいんじゃないかと考える。

でないと、自分にとってはしっかりしたアドバイスだと思っていても、相手にとっては「全然求めていた答えと違う」となってしまう。

かといって何も言わないのは相手に悪い。

もし経験をしたことがない分岐点に対する相談を受けたのならば、「経験していないこと」を前置きした上で少し考えてから意見を述べるようにしよう。

僕の育った環境、そこから得た考え方

※暗めで愚痴に近い内容なので嫌な人は注意。

 

 人は変わることができるとか言うけれど、結局変われるかどうかも環境で決まると思う。

僕の場合環境は酷かったが、たった一人よくしてくれた人がいたからどうにか今生きて変わりつづけることができてる。

その人がいなかったらどうなってるかわからない。

もしかしたら生きてないかもしれない。

それくらいには精神的に追い詰められる環境で育ってきた。

どんな環境だと聞かれて答えても、多分人によってはそんなに酷くないと言う人もいるかもしれない。

少なくとも衣食住が満たされて学校も行けて遊ぶものもあって。

でもそれが幸せとは限らない。

中学の時不登校になったタイミングから散々酷い目にあったが、上記の項目は全て満たされてた。

衣食住には困らなかったし、学校も精神的に病んで行けなかったが行くお金に困ってたわけじゃない。毎日のようにゲームもしてた。

でも全然幸せじゃなかったし、死にたかった。

ゲームも楽しむためというよりは酷過ぎる現実を見たくなかったから現実逃避としてやってた面が強い。

酷い時は朝から晩まで一日中してた時もあった。

当時は風呂に入るのもめんどくさくて数日入らないのも珍しくなかった。

風呂は言えば単純作業だ。

髪や体を洗いながら考え事ができる。

それが嫌だった。

少しでも辛い現実を見ていたくなかった。

だから寝る前も嫌いだった。

でも体に限界がくるから寝ざるを得なかった。

寝る前は毎度のように泣いてた覚えがある。

朝8時頃に起きて、居間のテーブルの上にあるごはんを片手間に食べながらゲームをし、昼も夜も同じようにする。

そして風呂に入る時は入り、入らない時はそのままゲームを継続。

深夜2時か3時にはゲームを止めて就寝する。

これが当時のライフサイクルだった。

ゲームがどうこうではなく、単純に酷い生活なのは多分子供ながらにわかってたと思う。

でもどうしようもなかった。

学校も親も、身近にいる人は誰も助けてくれなかった。

それどころか親にいたってはむしろ傷つけてきた。

何度も何度も精神的に攻撃をされた。

学校に行かなくなって外にも一切出なくなって、そんな状態の人間にどうしてああも酷いことが言えるのだろうか。

今でも信じられない。

暴力はほぼされなかったが、それが余計にたちが悪かった。

精神的な虐待は目に見えない。

数少ない親戚にも僕がただ一方的に悪いように伝わってるようだった。

味方が誰もいなかった。

独りだった。

本当に死にたかった。

誰にも認められなかった。

「産まなきゃよかった」と何度も言われた。

ネットで自傷行為をする人なんてのをたまに見聞きするが、僕は少し気持ちがわかる。

僕の場合唯一よくしてくれた人がいたから死にたくはなかった。

死にたいくらい辛かったが、唯一の希望だった。

だから死ぬかもしれないような真似はしなかった。

どうしたかと言うと、腕を噛むのだ。

もちろん傷がいかないように、だけど強く、歯形がしばらく残るように。

じわじわと皮膚が歯に押されていくのが心地よかった。

何がいいかって、暖かいからだ。

ものすごく辛い時に独りで誰も抱きしめてくれなきゃ、むしろそういう立場にいるであろう親までも敵になったら、一人で暖かさを得るしかなかった。

高校の話が出た時、定時制とはいえ受験勉強はしないといけないということで親が家庭教師を付けた。

今までずっと金がない金がないと言ってたのに高い金を払ったらしい。

今も専門学校に行く金には困らないらしい。

小さい頃から何度も聞かされて何か買ってもらう時は高いものを我慢してたのに、今でも嘘をつかれていた気分だ。

どこの大学が良いとかは詳しくないから知らないが、いいとこの人をつけてくれと安直に頼んだらしい。

一度決まりかけたがあそこの学校じゃダメだからどこどこにしてくれとか。

結果来た人は全然良くなかった。

不登校という時点である程度察せるだろうに、またもや親同様酷い状態の人間に罵声を浴びせるような人だった。

あの勉強量が普通の人からしたらどうなのかは知らないが、少なくともあの状態の僕にはきつかった。

それができなきゃ「殴っていいか?」と脅された。

結局殴られることはなかったが本当に酷かった。

怖かった。

小さい頃も祖父に怪我をさせられた記憶がある。

小学校の頃や中学校の頃も、ニュースものレベルの酷いものではないにしてもいじめもあった。

そのせいか未だに男というものが苦手だ。

自分の心情を話そうとは思えない。

話が戻るが、酷い状態の人間に酷い罵声を浴びせたり、親の文句を言っている人間を悪く言ったりする人はこういう人間のことがわからないんだろう。

自分が良い環境で育ってきたから、ニュースレベルの酷い環境じゃなきゃ子供は普通に育つと思ってるんだろうか。

どういう頭をしているのか不思議に思う。

犯罪者か否かでしか人の善し悪しを判断できないのだろうか。

0か1か、白か黒か。

そんなにはっきりしてる訳がないのに。

むしろ、はっきりしてたら誰か助けてくれて楽なのに。

 

 世の中で犯罪者と呼ばれる人たちとか、社会に馴染めず問題と言われるニートだとか、ああいった人たちが本当に悪いとは思わない。

ネットでちらと調べてみると、犯罪史上に名を残すレベルの人は親が酷い人も少なくない。

そういった人たちを全て調べた訳ではないが、全てそうなんじゃないだろうか。

本当に幸せで順風満帆で、何も人生に不満がない。

そんな人が犯罪を起こせば確かに悪いだろう。

でもそんな人が果たしているだろうか。

何かしら皆不満を抱えながら生きているものだが、その中でも特に酷い環境で生まれ育った人間が犯罪を犯すようになるんじゃないだろうか。

根っからの悪なんているとは思わない。

ニートもそうだ。

自分だって不登校を経験して実感している。

周りが誰も助けてくれないからそんな社会に出たくなくなる。

生きる気力がなくなる。

そうすると気持ちがわからない人は甘えとか言うんだろう。

僕も同じようにそう言う人の気持ちがわからない。

甘えて何が悪いのだろう。

幸せに育った人は少なくとも子供時代に親に十分甘えてるはずだ。

いい年をして?

それは子供時代に親に甘えられなかったからだ。

自分は良い思いをしておいて、他人ができなかったからそれを後になって取り戻そうとしているのを見て「いい年をして甘えている」などと言うのは本当に嫌いだ。

甘いケーキも食べ過ぎれば飽きる。

もういっぱいだとなる。

子供時代にたくさん甘える。

それは子供が大人になって親離れするために必要なステップの一つだ。

そのステップを踏み外しているのだから、大人と呼ばれる年になっても子供のようなのは仕方のないことなんだ。

本人の問題ではない。

環境の問題だ。

だが、そういったふうに子供を甘えさせることのできない親、犯罪者となる子供を育ててしまった親もまた、同じような親に育てられたのだろう。

だから子供に上手く接してあげることができない。

僕は直接親からの被害を被っているためやはり親のことは嫌いだし、加害者と思ってしまうが、親もまた上手く育ててもらえなかった被害者なんだろう。

話を聞くと耳を疑うようなこともされているらしい。

本人がそれでも親を悪く思っていないらしいことも驚きだが、だからこそ子供である僕にも酷いことができるのだろう。

そう考えると、この世の中に加害者なんて存在しないのかもしれない。

世の中全て被害者か被害を被っていない人だけなのかもしれない。

だから僕は悪いことをしている人を見ても加害者だとは思わない。

自分が被害を被った時はそうは言ってられなくなるのかもしれないが、できるだけ広い心で接したいと思う。

自分も、その人も、世の中皆誰だって幸せになりたがってる。

悪いことをしたとしてもそれは本人の問題ではない。

環境の問題だ。

幸せになりたいのになれないから、誰も認めてくれないから辛くなって、例え悪いことでもいいから誰かに認識してもらいたくて悪いことをする。

親に構ってもらいたくて悪さをする子供みたいだろうか。

きっとそうだ。

だけど当たり前だ。

何でかは知らないが、人間はそうできてる。

僕も誰かに認めてもらいたい。

それは例えシンプルなことでもいい。

僕の場合、名前を呼ばれることが著しく少ない。

今まで生きてきて親や親戚以外に名前を呼ばれた人の数が片手で足りるレベルだ。

その親も一人だし、親戚も数が少ない。

だから、僕は名前を呼ばれるだけでもすごく嬉しい。

呼ばれないのなら名前なんていらないんだから。

苗字ではなく、名前だ。

名前は住所の続きみたいなものだ。

○○県○○市の○○さんと言われても、そう珍しい苗字でもなければ被ることがほとんどだ。

例え○○町○○丁目○○番○○の○○さんまで行ったとしても、当然ながら家族と被る。

苗字で呼ばれることは、○○町の○○さんといった具合に、アバウトな呼び方でしかない。

個人としてその人を呼んでいるとは言い難いのだ。

だから僕は名前を呼ぶことで初めてその人を個人として見ているのだと言えると思う。

漫画でも映画でも何でもいいが、死にかけの登場人物が信頼している人の名前を呼んで何かを托したりする大切なシーンで相手の苗字を呼んでいたら何だか違うような気がしないだろうか。

少なくとも僕は名前を呼んでいる方がより一層厚い信頼を置いているように感じる。

その人を一人の人間として見ているからだ。

今親を除けば僕の身近にいる人で名前を呼んでくれるのはたった一人だ。

少し遠くにはいるが、すぐに会える人は一人だ。

親は名前を呼んではいるが、嫌いな親に呼ばれても嬉しいとは思わない。

だから、身近にいて僕の名前を呼んでくれる彼女が好きだ。

なかなか呼んでくれなかったから呼んでくれと頼んで、呼ばせたようなものだが、それでも以降呼んでくれるようになった。

別に毎日呼んでくれるわけではないし、回数を覚えてるわけでもないが、時々呼ばれると今でも呼んでくれたと嬉しくなる。

僕自身はと言うと、周りの人のことは周りがそう呼んでるからと言って同じ呼び方をしている。

でも、その内恥ずかしがらずにちゃんと個人としてその人のことを見れるよう名前で呼ぶことを心がけようと思う。

それだけで嬉しいと感じる人がいるのは確かだ。

そして僕が名前を呼ぶことで少しでも心地よさを感じてもらえるのであれば嬉しい。

もしかしたらそうして僕のことを信頼してくれた人が、悩みを相談してくれるかもしれない。

そして死にたくなるほど辛い思いをしている人の唯一の希望になれるかもしれない。

僕がかつて助けてもらったように、僕も誰か辛い思いをしている人がいるなら助けたい。

今の彼女に対しても、気持ちを伝える決心が付いたのは辛そうにしてる彼女を見て支えたいと思ったからだ。

名前に関しては呼んで欲しいと甘えてしまったが、例えそれ以外何の見返りがなかったとしても僕は彼女を支えよう。

拒絶されない限りは側にいて、いつでも支えられるようにもっと逞しくなろう。

一人でも生きるのに困らないように。

自分に余裕がなければ人を助けることはできない。

今からでも立派な人間になってみせる。