凄い久しぶりに書く。気持ちを整理するために書いてる。
前々から薄々気づいてはいたんだけど、僕は支配欲が強いのかもしれない。
AC(アダルトチルドレン)の症状の一例として、「愛情と支配欲を混同する」というものがある。多分これだ。
結構前からそれらしき部分は見えてたんだけど、気づかないふりをしてた気がする。
僕には何かと人が困ってると助けたくなるところがある。相手が喜んでくれる、感謝される、褒められる、自分も相手も良いことしかない。誰も不幸にならない。一見良いことのように見えるが、僕はこれを利用して裏で相手より優位に立ちたいと思ってる。気がする。
基本的に見返りはあまり求めないようにしてる。しんどい時は相手の好意を求めたりするし、たまに冗談半分で求めることもあるが、何もしないからと言って文句を言ったりすることはない。
でもこれはある程度仲の良い友達の話であり、それらとは別枠に入る人には違ってくる。自分の好きな人。自分を苦しめた人。そういった人には見返りを求めている。好きな人には極力求めないように努めるが、僕の相手に尽くす性格上あまりにも見返りがないと限界が来る。お互いの好意のバランスが保てなくなるとでもいうのだろうか。この尽くすというのも一方的なものになっているんだろうけど。自分を苦しめた人には、言えばサンドバッグになってやったんだから当たり前だろ?といった具合だ。親に対して特に思うし、昔僕をいじめていた人間にも思う。
この「尽くしてやったんだから」、「ストレスのはけ口になってやったんだから」、「言うこと聞けよ」というのが僕の愛情であり、支配欲なんだと思う。無条件ではない、条件付きの愛だ。こんなものは愛情と呼べないんだけども、悲しいが僕にとってはこれが愛情らしい。
何故支配欲が強いということに気づいたのか。
それは時折自分の中で起こる妄想がきっかけだった。
僕は小さい頃から親に甘えることができなかった。
自分のことを褒めずに怒ったり、否定したり、普段の言動もネガティブな事ばかりで、そんな親が嫌だったんだろうと思う。はっきりとした理由もわからず小学生中学年の頃には親を避けていた。
だから僕は、未だ見ぬ誰かに優しくされ甘える妄想をよくしていた。
普通の家庭なら親子間で築かれるであろう信頼の元、与えあえる無条件の愛。
それを僕は小学生の頃からずっと求めている。
小学生高学年の頃、寂しさから妄想で兄弟と遊び、姉を作って甘えていたことがあった。今も誰かに甘える妄想をするのもこれと同じだろう。
しかしそれとは別の妄想をすることもある。
これが気づいたきっかけだ。支配欲を満たす妄想だ。
中学2年の夏休み明け、不登校になった。
主な理由は学校とは関係ないのだが、いじめも理由の1つではあった。そして苦しんでいる僕の気持ちを考えない親の言葉が僕を更に苦しめる。
そんな中僕をいじめた人間や親を支配する妄想をするようになっていた。
設定を事細かに決めていた訳ではないが、とにかく自分が相手より優位に立っていて、相手は逆らえない状態で、自分の思う通りに相手を使う。
ボロボロになった精神を少しでも落ち着かせるための手段だったんだと思う。
これだ。この異常な苦しみが僕の中の愛情の定義を歪んだものにしたんだ。
自分が苦しんで、相手が支配欲を満たして、次に自分が支配欲を満たして、相手が苦しんで。結果的にどっちも良い思いをしてる。本当はプラスマイナス0なのに。本当の愛情はプラスに対してプラスで返す。完璧な人はいないから、そりゃ普通の人も多少は言うこと聞けよと思うかもしれないが、度が過ぎれば歪んだ愛情になる。
親以外の僕をいじめた人間などにも原因は少なからずあるだろうが、やはり親がメインの原因だとは思う。僕と同じ見返りを求める、条件付きの愛しか与えられない人間だからだ。
産み育ててやったから、ご飯を作っているから、学校の金を出しているから、住ませてやってるから、言うこと聞け。
そもそも子供は親が産む産まないを決めるものであって、子供から産んでください、育ててくださいと頼みに来るものではない。
自分が勝手に産んだにも関わらず「〇〇してやってるんだから言うこと聞け」とは身勝手にもほどがある。
産んでくれて育ててくれてありがとうと思うのは子供の自由であり、思うことを強制されるものではない。
結局はこうした条件付きの愛しか与えられずに育ったが故に、自分も条件付きの愛しか与えられなくなってしまったんだろう。それしか愛の形を知らないから。
だからだ。虐待被害者の子供が親になると、虐待をしてしまうと言われるのは。
気づいたなら治せるのかもしれない。
だがこの愛し方は自分が物心つく前から教えられてきたものだ。
しかもその親の元にもう20年近くいる。
人生を100年生きたとして、人生の1/5を共に過ごしてきて、人のことはこう愛するものだと教えられた。
果たしてそれでも治せるか。正直自信が無い。
自分と言う人間の根っこの部分だ。
人間の成長を建築に例えるのであれば、だんだんと完成が見えてきたタイミングで土台となる部分を変えようと言ってるようなものだ。
今更大黒柱の位置を変えることなどできない。
建築に詳しくないから場合によってはできるのかもしれないが、できるにしてもやはり大きな手間がかかるだろう。
人間の根っこを変えるなんてそうそうできやしない。
少なくとも10年やそこらで変わるとは思えない。
同じ20年という時間がかかるかもしれない。その時にはもう40歳だ。
倍の40年かもしれない。もう60歳だ。60年、80歳だ。
仮に努力を重ねて変えれたとしても、その時にはもう老いて、場合によっては死が間近だったり、人生を楽しむ余力も残っていない可能性もある。
酷い世の中だと思う。
死ぬのは怖い。
このまま生き続けるのも怖い。
弱弱しい人間なのはわかっているし、それに苛立つ人もいるだろうが、これは僕の責任の範疇を超えている。
産まれる場所、親、育つ場所、周りの人間、自分が愛されるかどうか、いじめられるかどうか、運でしかない。
僕はゲームは好きだが運の要素が強い、つまり自分の実力でどうにもできない要素が多々あるゲームは嫌いだ。
人生は運で決まる。
あるゲームで、強い人は配られたカードに文句を言わず、そのカードで如何にして勝つかを考えるというセリフがあった。
確かにそうするしかないし、それで上手くいく人もいるだろう。
というか、僕自身も小学生の頃から働きたいと言っていた業界に就職が決まった時点でそれを実践できているんだろう。
しかし、それでも、生きるのが苦しい。
早く楽になりたい。
だいぶ気持ちが落ち着いてきた。
最近死ぬときはどう死ぬのだろうとよく考える。
昔はいろんな人に愛されて惜しまれながら死にたいと考えていた。
せめて死ぬときはたった一人の大事な人に側にいてほしいとも。
だが最近はそんなこともなくコロッと死ぬんだろうと思ってしまう。
自分が思いもしないタイミングで唐突に「よし、死のう」と行動に移してしまうような気がする。
どう終わるかなんてわからないし、これからどう生きるかもわからない。
ただ誰かに愛されていると感じてみたいし、その人と愛し合ってみたい。
愛されてることに疑いなんて持たず、愛し方に疑問なんて持たず、自然体で無条件に愛し合いたい。
結果がどうあれ僕は今まで生きることをサボったことは一度もない。
不登校になって学校をサボろうとも、人が信じられなくなり人間関係をサボろうとも、いつだって必死に生きてきた。
自分の人生に恥はない。
だからまずは、自分を愛してやろうと思う。
糞ほど辛くても必死に生きてきて、頑張って小さい頃からの夢を叶えた自分を褒めて、労ってやろう。
過度に褒めて労うくらいがちょうどいい。
過度に褒められなかったんだ。僕の苦労を全て話せて、労ってくれる人もいなかったんだ。
少しは話せる人もいたけど、何を言っても受け入れてくれるから大丈夫、という人はいなかった。
他人の目を気にし過ぎず、できるだけわがままになろう。
誰も甘やかしてくれないなら、自分で自分を甘やかそう。
苦しいなら吐けばいい。
何だこいつネガティブだなと嫌われてもいい。
嬉しいなら周りに嬉しいと言えばいい。
何だこいつ自慢したがりかと嫌われてもいい。
結局苦しいのを伝えても嬉しいのを伝えても嫌われるときは嫌われる。
自分に正直に生きればいい。
もうすぐ1人暮らしで親からも解放される。
特に何も抱えていない普通の人よかよっぽど苦労は絶えないだろうが、糞みたいな人生歩んできたならわがままになって楽になってもバチなんて当たらないだろう。
僕はわがままになる。